目の前に広がるのは闇ばかりで、残月の判断は正しかったとヒィッツカラルドは痛感する。 暗いのかすらよくわからない。正確には黒い。黒くて冷たい空気が顔をたたく。目を閉じても視界にたいした変化はなく、砂嵐に似た電子音が右耳の交信用シーバーを震わせるだけだった。


「この仕事、十常寺なら適役だったろうに」


あまりに軽々しく笑うので、ヒィッツカラルドは驚いて声の方向に顔を向けた。その先には果てなく黒い世界しかないというのに、赤い男の姿はそれとなくわかる気がした。かちり、かちり。歯の鳴る音がする。それは常日頃からのレッドの癖で、真っ黒な視界の中でも当然のように行われていた。


「なぜだ」
「あいつぁ夜目が利く」
「忍は利かないのか」
「夜目は利かん。利かない中でも人を殺せるからな」
「…なるほど」


高い電子音が一定の高さで鳴り続け、そのうえに砂嵐に似た音がざらざらと被さっている。ときおり交わす会話が電子音をかき消す事はない。重なり合った電子音は、二人の右耳にはめ込まれた交信用シーバーを常に震わせている。


「畜生。残月のやつ、一体何をしているんだ」
「復旧はまだ先だな」
「奇襲には絶好のチャンスだというのに」
「信用されていないのだろう?」
「お前も一緒だ」


ぱちんと、真似をするように指をはじく音がした。もちろん隣にいるレッドが奏でたのだ。今この瞬間ですら、こいつにとっては非常事態ではないのだろう。








施設内のすべてのエネルギー供給がストップして十分が経つ。
照明装置にはじまり施設内の設備はどれも活動をやめ、電気仕掛けの施設は海に沈んだような静けさに包まれた。


「問題はない、むしろ好都合だ」
『そうはいかない』


電子音が形づくる残月の声だけが、いま頼りにできる唯一だった。


『相手も警戒態勢に入っている。下手に動くのは危険だ』
「その騒ぎに紛れ込めばいい」


赤い男はすでに、暗闇の中でそこそこ視界を確保しているらしい。暗闇で生きていると言ってもおおげさではない男だ、不思議なことでは決してない。それだというのに、目の前で息をしている気配すら感じない事にヒィッツは密かに背筋を冷やす。


『騒ぎのなかにお前たちを放りこめば、どうなるかくらいこっちもわかっているのでね』
「信用されてないな」
『残念ながら』


ざらざらという電子音をバックに、残月はぴしゃと言い放った。笑いを含んでいながらその声は絶対で、有無を言わせぬ力が込められている。同一回線で会話を聞いているヒィッツがくつくつと笑う。


『原因はこちらでも探っている、しばらくは待機だ』
「了解」


機密データの奪取と、おまけ程度の破壊活動という単純な仕事だった。そう思うと決まって予想外のトラブルに遭遇する。いや、ろくな結果にならないのはこの男と仕事をしているからではないか。ヒィッツカラルドはふと思って、悪い予感を振り払うように咳払いをした。


連絡が途絶えてから五分。残月から連絡はない。








「何がすぐだ、残月のやつ」


待機だと言われても、敵地のど真ん中でのんびりするわけにもいかない。
原因不明のエネルギー不足で此処彼処が騒がしく、いつ居場所をさぐられてもおかしくはない状態だというのに、待機することしかできないのはたしかに苦痛だった。仕方なしに手狭なミッションルームを選んで身を潜めたまでは良いものの、行動を制限されるのはレッドだけでなく、ヒィッツカラルドにとっても苦痛だった。冷えた壁に背中を預けると、忍者のぶつぶつ言う声が聞こえる。かちり。かちり。暗闇を裂くように、時折聞こえる鋭い音。


「おい」
「なんだ」
「その、歯、どうにかならないのか」
「ならん」


あたりが真っ暗になったとたん、忍びの姿は影どころかまったくわからなくなった。あの仮面と長いマフラーを残して、黒々とした体は闇に溶いてしまったのだろう。忍ぶことを強いられて生きてきた男にとって、それは癖というよりも生きる術に近い。しかし光のない世界では、生きているのかすら分からない。柄にもなく非現実的なことを夢想してヒィッツカラルドは笑った。うすく、口元の形だけで笑う。


「ヒィッツ」


心なしか苛立った声が暗闇を切る。ああ生きていた、とヒィッツカラルドはわずかに安堵して、声の方向に顔を向けた。どこを見ても闇だというのに、視線は自然とその方向に向かう。


「お前、今どれだけ見えている?」
「お前がいる場所くらいは」
「わかる?見える?」
「わかるだけだ。見えはしない」


ふいに、この男は苛立っていないと気づいた。苛立ちどころか笑っている。暗闇の中にたしかに、半月の形にひらく口元が見えた。息を飲む。


「それじゃあ、これは?」


闇のなかから、黒い影が形になって現れる。予想が最悪な形で的中する。
取って食われてしまいそうな勢いで舌がからむ事も、歯があたってがちと音が立つことも、生暖かい口のなかの感触も、予想していながら頭のなかで否定しつづけてきた。いつだってそうして失敗する。この無遠慮な舌がマスクザレッドのもの以外であるはずがないのに、そう確信できるだけこの男にふれてきたのに、あせる気持ちまでは予想できない。


「…随分と、楽しそうだな」
「ああ、楽しい」


突然力まかせにつき返され、口のわきに唾液の糸が光る。見えていないにも関らず想像は簡単について、向かいの男の表情まで、不気味なほどに思い浮かぶ。見えても見えていなくても、結局なに一つ変わる事はない。この男にはまた勝てない。


「でもまだ足らん」


開けた視界の中で目の前に居た男がマスクザレッドではなかったらどうしようかと、ありもしない想像をする。なぜか考えてしまうのは、この男がいつだって暗闇に姿を消してしまうからだ。そのくせ本当に楽しそうに、声をあげて笑うからだ。


鼓膜を叩く電子音が残月の声に変わる。すまないだの復旧の目処だの今どこだの、ざらざらと耳に流れ込む言葉を理解しようとヒィッツは薄目をひらく。それでもまだ、レッドの口は動くことをやめない。


「あと、どれくらいだ?」


唇のうえを撫でるように動く男の声は、自分にではなく残月に向けられている。熱のない声にこっちがどきりとする。つづく無音。それほどの長さではないはずなのに、気味が悪いほどの沈黙のなか、無線機の向こうの応答を待つ。残月が告げた時刻はあまりに長いと、ヒィッツは眉をしかめた。


「了解」


レッドの苛立った口調がぶっきらぼうに回線を切り、直後に「短いな」と舌打ちをした。その苛立ちを全部ひきうけたような力で、ヒィッツカラルドの襟をぐいと引く。


「あと二分だ」


左耳に流れ込む声に、思わず息を飲んだ。世界中のどの場所よりも、たっぷりと用意された二分間が待っている。

















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