恋は盲目


スーツに体がはり付く。
動くたびに手足がスーツからはがれる感覚が、皮がはがれるようで不快だった。


「あー」


マスクザレッドは額にはりついた髪を指ではらうと、意味のない大声をあげた。汗を吸っ たスーツは重く、なにより夏の気温が体を重くする。 体の底にたまっているわずかな勤労意欲が、毛穴からダラダラと流れてスーツに吸われて いくのがわかった。さっきから目がかゆくて仕方がないのに、マスクが邪魔でこすれない。


「ヒィッツ」


声をかけたら妙にかすれていてあせった。
薄っぺらいテレビからはなんだか古そうな映画が流れていて、フイルムが日に焼けたみた いに、画面が黄色くにごっている。なんでこんなもん見てたんだっけ、と思い出してみたら ヒィッツカラルドが浮かんだ。そうだった、孔明に死にたくなるような量の暇を出された ヒィッツカラルドの様子を見て、ついでにからかってやろうと思ったのだった。


ご本人様はソファに横になったまま「どうした」といつも通りの返事をかえしてくる。 寝ているのかと思っていたが、そうではないらしい。


「どうしたじゃない、お前こそ大丈夫なのか?」
「足首が痛む」


ヒィッツカラルドは時々たまに笑えるくらい使えなくなる。使えなくなるというのは単純に 言ってしまえば人が殺せなくなる。例の指パッチンが不発だったり空砲だったりして結局 手持ちの拳銃だナイフだで決着をつけることになるから、そこらへんのエージェントとたいして 違いがなくなる。しばらくすると孔明が暇を出す。「まあ今はたいした計画は進行していないですから、 少しゆっくりしてくればいいでしょう」と、目玉の奥をねっとりと光らせて言う。




レッドは口のわきからこぼれる、役立たず、という言葉を飲み込んで、代わりに生理と 名前をつけて呼んだりしているが、いつかその本音が飲み下せなくなる日がくるような気がして、 それはそれで楽しそうだ、と思っている。


「足首って。関節か、熱か」


後ろで寝転がっている男に聞くが返事はない。レッドは舌打ちを隠しもせず、ソファに寝 ているヒィッツカラルドの前髪を持ち上げた。 男の前髪は休日といえども体調不良といえども綺麗になで付けられているから、本当は そんなことをする必要はない。ただなで上げる仕草がしたかった。


「うむ、なかなか男前だ」
「お前の言う男前はなんだ、前髪がつかみやすい奴のことを言うのか」
「正解」


ヒィッツカラルドの言葉をさえぎって、レッドは茶の髪をぐしゃぐしゃとまぜる。 勢いにまかせて額に噛みつけば、ヒィッツカラルドは子供のようにぎっと瞼をとじる。 やはりこの男は役に立たない。
いちいち目をつむっては、こっちの出方をうかがう様がどうにも癪で、食らいつくように 男の瞼に唇をおとす。本当にほしいのは、その下に埋まっている小さな球体だけれど それは言わない。


役立たず、という言葉といっしょに飲み込む。


ざらざらしたまつ毛の感触と、重く抵抗してくる眼玉の存在感が舌の先にのしかかる。 閉じられたまぶたを舌の先で押しあけて、忌々しい中身を確認する。 ヒィッツカラルドはきつく閉じた歯のすき間から「い」とだけ小さく言い残すと、残りの 言葉はすべて飲みこんだ。舌の先が熱い。


「…知恵熱」
「は?」
「とかだったら、間抜けで面白いのに」


男の瞼から唇を離すと、レッドはにやりと笑って上唇をなめた。
ゆで卵だとか豆腐だとか、今までに舌でさわってきた様々なものが男の頭の中をめぐって いたが、どれも先ほどの感触を言い表せるものはなく、それを言葉にしてヒィッツカラルドに 伝えるのはやめた。


「まったく、手に負えん」
「なにが」
「お前のその癖だ」


ヒィッツカラルドの心臓は重く上下しているようで、スーツの上からそれをたしかめよう としたレッドは革靴でかるく蹴られた。


「お前が嫌がるなら、なんだってしてやろう?」


心の臓に直接ふれたい。すべての行為は、ただそれを遠まわしにしているだけだ。
















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